TOKYO BIENNALE



『東京ビエンナーレ 2020』のテーマ
「純粋」×「切実」×「逸脱」

 布に絵の具を塗ったものや、鉄の塊が「芸術」と言われる所以は、どんな点にあるのだろう?
 一般的に有名な絵画や彫刻、オペラやダンスのような崇高で、なにかとても価値が高いものだったり、誰にもマネできない行為だったりを「芸術」と言う。ではなぜそう言われるのか? 「芸術」と「芸術ではないもの」の違いはどこにあるのだろうか? しかも、それをつくり出す人を「芸術家」や「アーティスト」と特別な言い方をする。いったい、どんなことをできる人がそう呼ばれるのか? 特別な言い方をしなくてはならない理由は、どこにあるのだろうか?

 それらのことを繙くキーワードを3つあげる。
 1つ目は「純粋芸術」「ファインアート」と言われる場合の「純粋」である。多様な創造力の中でも、人間の尊厳を感じる崇高な精神性や豊かな心を「純粋」という。大衆的、商業的、作為的な行為とは対照的であり、その純度が高ければ高いほど研ぎ澄まされた人間力を感じる。
 2つ目は、極限的で限界的な状況に追い込まれたときや、どうしようもなく行わなければならないときの「切実」さである。生きていくことと同様に、つくらなければならない行為や表現の質を言う。例えば、震災で家や家族、お金も失い、何もかもなくなったときに、生きていくためにはじめる活動はとても「切実」である。
 3つ目は、この「純粋」な精神力を抱き、かつ「切実」な表現活動をし続けている人がつくり出す様々なモノや表現活動が、それまでの状態から他に類を見ない「逸脱」した存在となったときである。際立った表現でなかったものが、いつの間にか変化しはじめ、あるとき「逸脱」する存在感を獲得する。この逸脱の創造プロセスが重要である。
 「純粋」で「切実」な行為や表現が「逸脱」した存在となったとき、私は、そこに「芸術」としか言いようのない状態を感じ取る。
 何気なく紙に鉛筆でさらさらと描いたものに「芸術」を感じるときもあれば、何十年もかけてつくりだした壮大な建築でもまったく感じない場合もある。それは、私論だがこの「純粋」「切実」「逸脱」という3つのどれかが欠けているからである。いくら高価な材料でつくったとしても「純粋」性を感じなくては「芸術」とは言えない。「切実」な表現でないものは、いかに技術的に優れていても、人間的な魅力を喚起しない。「逸脱」していない状態は、いかに「純粋」で「切実」な表現であったとしても普通な表現としか感じ取れない。

 この「純粋」×「切実」×「逸脱」という3つの言葉と、その言葉がクロスすることで生み出される概念を、「東京ビエンナーレ」という新しい構想のフレームの中へ投げかけたい。関東大震災、第二次大戦の空襲で焼け野原になった東京、東日本大震災でおこった福島第一原子力発電所事故。「破壊と創造」がくり返される日本において、「人間と物質」が生み出して来た様々な仕組みや社会環境を、私という「個」と私たちという「全体」の中にある社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)を構築するプロセスを通して創造していきたい。そのためにも、ここで働き暮らす「私」の中にある「純粋」×「切実」×「逸脱」という“身体的文化因子”が、「私たち」へと一斉に進化するための起因となること。それが新たに創り出す「東京ビエンナーレ」である。別の言い方をすると東京ビエンナーレの各プロジェクトが「私」の内なる壁を打ち破り”一点突破全面展開”する契機となり、膠着している東京に新たなメタボリズムを与える事。そして多様な「私たち」の市民目線から押しつけや享受するだけのものではない、「自分たちの文化」を「自分たちの場所」で、創発的に組成していく事。それが「私たち」東京ビエンナーレ市民委員会が考える、これからの時代の新しい「東京ビエンナーレ」である。

東京ビエンナーレ市民委員会 共同代表
中村政人(アーティスト)

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