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上野・御徒町エリア

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藤原信幸:ガラスを使って自然を表現する「植物のかたち」2025

藤原信幸は「いきもの」のかたちに魅力を探り、これらをモチーフとして繊細かつダイナミックなガラス造形作品を生み出します。彼のガラスへの関心は、光がもつ環境に与える力を感じとり、光がつくる空間の可能性を追求することにつながっています。その長いキャリアを通じて、彼はガラス表現の可能性をめぐる探求と葛藤を繰り返しながら、これらを象徴的な「かたち」に変換しようと試みています。   今回はその実践から生まれた作品群が、寛永寺の空間と呼応するように展示されます。2009年頃から制作を始めた〈小文間の植物シリーズ〉は、自身の工房がある茨城県取手市、利根川流域の小文間(おもんま)に自生する植物の生命力に触発された作品群です。自然の中にある生命サイクルを身近に感じながら、植物の断片的なイメージを独自に組み合わせて再構築したものです。これらが創建400年を迎える寛永寺で再構成され、新たな空間イメージを創出します。   特別協力:東叡山 寛永寺 協 力:東京藝術大学
【開催前】2025.10.17 - 12.14 / 東叡山 寛永寺 貴賓室
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森 淳一:星翳

森淳一は彫刻、セラミックや写真、油彩などにより、光と影が繊細に交錯するような緊張感あふれる作品を生み出します。これまで、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた水流や毛髪などの素描を元に大理石や柘植(つげ)の木で制作した彫刻シリーズや、故郷の長崎の原爆をテーマとする作品などを制作してきました。   今回は東叡山 寛永寺の渋沢家霊堂前庭にて、森が2025年春に開始した彫刻シリーズ〈星翳〉の最新作を発表します。シリーズの発端は、アルベルト・ジャコメッティの多面体の彫刻《キューブ》(1933–34)と、デッサン《月を思わせるもの》(1933頃) だといいます。森は《キューブ》の形態の意味を読み取ろうといくつかの多面体を制作しました。手がかりを得られぬまま手を加え続ける過程で、不意に現れたのが《星翳・初層・キューブ》(上写真)です。   作家によれば、ここでいう「星」とはジャコメティが《月を思わせるもの》で描いた、暗闇に浮かぶ仮面のような存在に近いものだとされます。今回は、星にまつわる森自身の体験をもとに新たに7点を制作。「それぞれの像を結び付ける何か(星座のような)が現れること」を期待しながら生み出された作品です。   特別協力:東叡山 寛永寺 協力:東京藝術大学
【開催前】2025.10.17 - 12.14 / 東叡山 寛永寺 渋沢家霊堂前庭
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黒川岳:石を聴く

一見すると大きな石塊に見える作品《石を聴く》には、私たちの頭が入るくらいのサイズの穴があります。そっと頭を入れてみると、風の音、周囲の声や音など、環境が奏でる音が響いています。それは作品の置かれた場所や状況によっても変わってくるでしょう。   本作のタイトルは、彫刻家のイサム・ノグチの言葉「自然石と向き合っていると、石が話をはじめる」も連想させます。一方で黒川は、物体や環境と身体との関係に着目しながら、彫刻やパフォーマンス・音楽などを制作するアーティストです。この展示では、外部からの鑑賞のみが許されることの多い彫刻作品が、鑑賞者がその内部でじっと耳を澄ませる作品にもなります。両者を往来する経験は、私たちが生きる環境について感じ直すひとときとなるでしょう。   今回は、寺院の境内と街中の店舗跡という、性格の異なる場に本作が設置されます。また、寛永寺 開山堂(両大師)の庭園内にある寝釈迦石(ねじゃかせき)の「穴」(既にあったものを作家が見つけた)でも、同様に頭を入れて音を聴くことができます。   本作品は複数会場で展示されます。詳しくは「会場」「日程」欄をご覧ください。 会期中には黒川の企画によるワークショップ「街のかたたたき」も開催します。   特別協力:東叡山寛永寺 協力:東京藝術大学、神谷氷店 *黒川岳は「看板建築プロジェクト」参加作家です。  
【開催前】2025.10.17 - 12.14 / ① 東叡山 寛永寺 根本中堂前 ② 東叡山 寛永寺 開山堂両大師 ③ 神谷氷店

日本橋・馬喰町エリア

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スキマプロジェクト/日本橋室町・本町

都市の構造を物理的、観念的な「スキマ」からとらえ、ビルの間のわずかな隙間(すきま)を作品発表の空間や作品そのものとして活用する試み。1999年に中村政人とコマンドNが実施した伝説的なプロジェクトで、今回は路地裏の鉢植えの隙間を縫うように、アーティストたちの彫刻作品が鉢植えに「擬態」しながら、まちのスキマ空間を豊かに彩ります。   協賛:三井不動産株式会社   ミルク倉庫ザココナッツ《萬葉草奔》2025年(コンセプチュアルイメージ[CG])   アーティストと作品 岩岡純子 Gar(e)den   私は日頃、街を歩きながら、看板に残る貼り紙や文字、ストリートアートの名残、それらが色あせていく様子に美しさを感じています。そこには人々の行為の痕跡が幾重にも刻まれ、ときに美術史を想起させる魅力があります。たとえば抽象絵画のような色彩や構図、また「デコラージュ」の技法のように、貼る・描く・剥がす・消す行為が重なり、無意識のうちにひとつの画面が生まれることもあります。   もちろん、それらを「汚れ」として受け止める人もいるでしょう。しかし、もしこうした看板が美術館に展示されていたら、人はそれを作品として眺め、美を見いだすかもしれません。 今回は街にプランターを置き本物の花を植え、そばに看板を添えます。その看板に、使い込まれた痕跡を絵の具で模写し、行為の痕跡や無意識の積層を絵画として表現します。街に紛れる小さな仕掛けが、通りすがりの人に静かな違和感と発見の喜びをもたらすことを願っています。 片岡純也+岩竹理恵 作品プラン   呼吸する裏路地   ビルのすきま、植木鉢の葉が揺れ、線材が共振する。振動する輪郭が、見えない風の形をなぞり、都市の呼吸を知らせている。 栗原良彰 カワウソ☆ ガイタヨ♡   かつて日本の水辺に暮らし、人々に親しまれながらも姿を消した「ニホンカワウソ」。その存在は絶滅したと考えられ、この世界から失われた絶滅種としてのみ、私たちの記憶の中で生き続けています。   本作品は、日本橋川から程近い日本橋室町という都市の中心において、もしも植栽の間からふいにカワウソが姿を現したなら——という「予期せぬ出会い」をカタチにしたものです。陶芸による彫刻作品によって、都市に潜む自然の気配を召喚し、失われた命との想像上の遭遇を目指します。思いがけずこの小さな存在と目を合わせたとき、都市の日常風景が現在〜江戸〜それ以前へと続くここに生きる物語を帯び、自然と共にある我々の未来を考えるきっかけとなることを望みます。 6lines studio+塚本由晴 日本橋のイエハニワ   都市開発により高層化する無色透明なビル群。街区内の路地に立つと、そこは相対的に低く、暗く、日本橋の街はまるで地の底に沈んだようだ。五街道の起点、人や物の集積地として町人長屋や露店、魚市場や倉庫などが立ち並び活気あふれる日本橋は、明治以降百貨店や銀行の進出により商業・金融地としても発展を続けた。   しかし、関東大震災や東京大空襲を経て、高度経済成長期の首都高速の上空敷設など、街の歴史的な佇まいは戦後大きく変化してきた。どの場所にも今に至るまでに辿ってきたそれぞれの経路があり、それなしで現在の姿を語ることはできない。かつて日本一と呼ばれたその街並みを見ることはもはや難しいが、江戸の地割が生み出した都市の隙間は今もぽっかりと存在し続け、それは人間の時間を超えて生き続けている。私たちは、かつて日本橋の街を構成した建物をかたどった焼き物を製作し、街の様々な隙間に並べることで過去を想う。 寺内木香 もしかしての石   公園や路地の隅、植木鉢の脇、小さな石のたまり場などに、輝く小さな石のオブジェをさりげなく配置します。それはまるで「ただの石」のようでありながら、どこか気になる形や質感を持っていて、目を留めた人にふと「もしかして……?」と思わせる存在。   「これは、トリケラトプスの目の化石かもしれない。」   そんな子どもの頃の妄想や他愛のない会話が思い出されるような、想像の余白を与える作品です。 戸田祥子 跳ね返る、目と芽と   とうきょうと、にほんばし、ガリガリ山のパン屋さんと、つねこさんが、階段のぼって、こーちょ、こちょ。手と腕は、日本橋の街並みになりました。指と指の間には路地があります。小さな路地には、産毛が生えるように、鉢植えの植物が寄せ合って生えています。よく見ると、目が出ています。毛穴が光るように、しっとりと艶を宿して、こちらをじっと見ているようです。産毛が健やかに育つように、支柱を建てネットを被せましょう。芽を大切にすると、遠くの方までよく見渡すことができます。そこからは何が見えるでしょうか。この腕の階段はどこに続いているでしょうか。 ミルク倉庫ザココナッツ 《萬葉草奔》2025年(コンセプチュアルイメージ[CG])   萬葉草奔 野不為馴(Plantation I) 萬葉草奔 囿外之境(Plantation II)   本作は、路地という存在そのものを小さな「鉢植え」へと転位させる試みです。下町の路地裏に潜む雑多な造形や重層的な時間を鉢として再編し、決して一元化されることのない都市の断面を浮かび上がらせます。   鉢には、金継ぎ・鎹継ぎ・呼び継ぎといった異なる修復技法を交錯させ、陶片やコンクリート、石材、プラスチックなど多様な断片を縫合しています。こうした技法と素材の混淆は、複数の異文化や異時代を併置し、さらには、石畳やルーバーのリズムと変調や揺らぎ、高架下の陰影、建築を縁取る水切りなど、覇権的に規定された視覚秩序からこぼれ落ちてしまう都市の姿をも写し取ります。   寄せ植えには、観賞用として輸入された外来種や在来種、その交配種、さらには雑草と呼ばれる植物までもが、競合関係の中でひとときの共生を見せ、馴致されることのない生きた路地裏の野生性を宿しています。 森 靖 《Power chord – Praying hands》2025年   Power chord – Praying hands   莫大な時間と重力などによってできた鍾乳石に、祈りのカタチを見いだした。 手を合わせる祈りのポーズは多くの宗教にみられる。僕は小さな頃、カメハメ波や波動拳が出るのではないかとよく「気」をためていたのを思い出す。 この石のように、長い時間をかけたのならば、想いはカタチになるような気がする。 水の力によって穴のあいた石を連想する都市の中の「手水鉢」に、長い時間をかけて水によってできた鍾乳石から制作した作品を設置する。
【開催前】2025.10.17 - 12.14 / 日本橋室町・本町の路地裏

神田・秋葉原エリア

  • 彫刻・立体

黒川岳:石を聴く

一見すると大きな石塊に見える作品《石を聴く》には、私たちの頭が入るくらいのサイズの穴があります。そっと頭を入れてみると、風の音、周囲の声や音など、環境が奏でる音が響いています。それは作品の置かれた場所や状況によっても変わってくるでしょう。   本作のタイトルは、彫刻家のイサム・ノグチの言葉「自然石と向き合っていると、石が話をはじめる」も連想させます。一方で黒川は、物体や環境と身体との関係に着目しながら、彫刻やパフォーマンス・音楽などを制作するアーティストです。この展示では、外部からの鑑賞のみが許されることの多い彫刻作品が、鑑賞者がその内部でじっと耳を澄ませる作品にもなります。両者を往来する経験は、私たちが生きる環境について感じ直すひとときとなるでしょう。   今回は、寺院の境内と街中の店舗跡という、性格の異なる場に本作が設置されます。また、寛永寺 開山堂(両大師)の庭園内にある寝釈迦石(ねじゃかせき)の「穴」(既にあったものを作家が見つけた)でも、同様に頭を入れて音を聴くことができます。   本作品は複数会場で展示されます。詳しくは「会場」「日程」欄をご覧ください。 会期中には黒川の企画によるワークショップ「街のかたたたき」も開催します。   特別協力:東叡山寛永寺 協力:東京藝術大学、神谷氷店 *黒川岳は「看板建築プロジェクト」参加作家です。  
【開催前】2025.10.17 - 12.14 / ① 東叡山 寛永寺 根本中堂前 ② 東叡山 寛永寺 開山堂両大師 ③ 神谷氷店
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秋山珠里:出発準備

秋山珠里は蜜蝋を主材料とし、その歴史・文化・哲学的背景にふれながら、絵画と彫刻を横断する作品を制作しています。今回は、モルタル装飾が印象的な看板建築「角地梱包」にて、場の歴史に呼応する展示に挑みます。   関東大震災後の東京に現れたバラック建築に、当時の芸術家・村山知義はアヴァンギャルド装飾という芸術の場を見いだしました。また復興期の木造建築には、建物正面を銅板、モルタル、タイルなどの不燃材料で覆い、多様に装飾したものが現れました。後年、建築史家の藤森照信が「看板建築」と名付けたこれらの建物は、バラックのおおらかな装飾性と媒体性を受け継ぐようでもあります。   その後、東京は戦争で再び焼け野原になり、地価高騰を経て、いまや建築物は土地の「うわもの」とされるに至ります。一方で建物内に目を向ければ、日本建築史の中では、芸術は仮設的な屏風や障壁画などから、床の間という「領地」を獲得しています。   「仮設・常設・基礎」。秋山は今回、この流動的または創造的な関係性について、古くから表面性や仮設性の象徴である蜜蝋を用いて表現します。会場は現存する貴重な看板建築であると同時に、かつて梱包業という「出発準備」や「ここにいるがすでに出発している」という曖昧な境界を担ってきた場でもあります。   協力:角地梱包 *秋山珠里は「看板建築プロジェクト」参加作家です。
【開催前】2025.10.17 - 12.14 / 角地梱包

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